天地人~三条編~

【三条城(三条嶋城)の誕生】
 三条城(三条嶋城)は平安期に「三条左衛門」が築いたと云われ、前九年の役(1050~63)の後「安倍貞任」の郎党「黒鳥兵衛」が攻め落とし、南北朝時代には南朝方の「池氏」の拠点となったと云う説もあるが、「三条市東裏館」にある「定明寺」に「三条左衛門定明」の墓が奉られている。資料によると、最初の檀家であり「定明寺」の建立に大きく関係したと思われ、没年は正中二年(1325)七月十二日と記録が有る。と、するならば前説は300年近く差があり、話のつじつまが合わない。いずれにせよ「三条城」と「三条左衛門」の関係はまだ伝説の域を出ない。 また、永仁5年(1297)に開基した「本成寺」に伝わる「阿弥陀如来座像」の裏に『正和三年・三条庄』(1314)とあり、この頃には地名として「三条」はあったのかもしれないが、こちらも学説は分かれている。
【室町時代】
 上杉氏が越後守護に任じられ、守護代として「三条長尾氏」が三条城を築いたともされるが、確実な記録では応永年間に三条城主として「山吉大炊介久盛」が現れるのがもっとも古い。  応永三十年(1423)「山吉久盛」の拠点である三条城が、「中条房資」「黒川基実」「加地氏」「新発田氏」に攻められるが、黒川、加地、新発田が寝返り城落しなかった。
【戦国時代】
 永禄二年(1559)「上杉謙信」〈長尾景虎〉の上洛に際し「山吉孫次郎豊守」が「謙信」より太刀を献じている。「豊守」は「謙信」の配下で奉者として、活躍し永禄九年(1566)~十年(1567)にかけて、甲斐の「武田氏」駿河の「今川氏」会津の「芦名氏」や関東の諸将などとの外交に従事した。永禄十二年(1569)~十三年(1570)には小田原の「北条氏」との和睦に奔走。天正三年(1575)には「山吉氏」は377名という「上杉氏」の家中で最大の軍役数を負っている。天正五年(1577)九月に「豊守」が死去すると嗣子がなかった為弟の「山吉景長」が家督を嗣いだが、領地を半減され「木場城」に移され三条城には「神余親綱」が城主として入った。
【御館の乱】
 天正六年(1578)三月十三日「上杉謙信」の急死により「景勝」と「景虎」の間で、家督相続の内紛が勃発した。「景勝」「直江兼続」は春日山城を本拠とし、「景虎」は御館城に立てこもった。戦いは御館城の攻防であった事から、後に「御館の乱」と云われている。「三条城主」である「神余親綱」は当初「景勝」に付く態度を見せたが、同年5月には「栃尾城主」の「本庄秀綱」と「景虎」に与し「景勝」「兼続」に対抗した。三条周辺では「景虎」側が有勢だったが、頚城、魚沼では「景勝」の勢力が強く天正七年(1579)三月十七日「御館城」は落城する。同年三月二十四日鮫ヶ尾城に逃れるが、城将「堀江宗親」の離反により「景虎」は自刃した。
【景勝・兼続VS三条城】
「景虎」死後も「神余親綱」は抵抗を続ける。天正八年(1580)四月には、「景勝」自身が出馬し「三条城」「栃尾城」を攻めたが落城出来ず引き返している。この時指揮を執ったのは「兼続」だったのかもしれない。その後「神余親綱」は「景勝」に和睦を申し入れてたが、成立せず。天正八年(1580)六月「木場城」将の「山吉景長」が三条城内の旧臣に呼びかけ内応を誘い、三条城は落城し「神余親綱」は自刃することとなった。  「景勝」は三条城を応急普及し「甘粕長重」を城主に据える。天正九年(1581)「新発田重家の乱」が勃発するが、この時「上杉景勝」の中継地点として出馬の都度、度々三条城に立ち寄っている。慶長三年(1598)「景勝」の会津移封後は「堀直清」が三条城城主となるが、慶長五年(1600)「関が原」の役に関連して上杉の旧臣の一揆の攻囲にあい苦戦した。「堀直清」が改易となると三条城は、一旦廃城となるのである。
【三条城のその後】
 元和二年(1616)「市橋長勝」が「大阪夏の陣」の功績により4万1300石の加増移封となり三条城主となる。元和六年(1620)「勝長」は亡くなり、養子の「長政」が後を継ぐが、養子という理由で2万石に減らされ、同年のうちに仁正寺に移封される。その後「稲垣重綱」が城主となるが元和九年(1623)大阪城城番となり転出、出雲崎代官所が支配する事となったが、寛永二年(1642)長岡藩「牧野忠成」により三条城は、取り壊しとなった。慶安二年(1649)出雲崎代官所の支配を離れ、村上藩の領地となった。
【三条城は何処にあったのか?】
 三条城(三条嶋城)があったとされるのは、信濃川と中之口川に挟まれた文字通り島状の地形の旧競馬場付近であったと見られています。  江戸時代に入ってから河道変化で三条嶋城は信濃川本流に侵食され、元和二年(1616)に「市橋長勝」が、新たに新・三条城を築く頃には原型を留めぬ程崩壊していたようである。
【新・三条城は何処にあったのか?】
 現在の三条小学校、三条公民館の辺りに新・三条城は造られたようだ。  旧古城町、裏館など城に関する町名が残っているのもそれを物語るのではないか。しかし、「市橋長勝」が新・三条城を造り始めてから僅か15年で三条城は廃城となってしまう。壊していたようである。
【あとがき】
 「御館の乱」は、三条城の落城でほぼ終結したとされる。室町時代から三条を治めたのは山吉氏だっが、山吉豊守が御館の乱が始まる前年に亡くなると、京都出身の神余親綱が登用されて城主となっていた。  親綱は景虎を支援する。しかし城主となって日が浅く、家臣は木場城に更迭された山吉氏時代の者ばかりで掌握出来ずにいた。親綱は家臣の裏切りに遭い、三条城は内部崩壊し落城。親綱は天正八年(1580)自刃したとされるが、その記録や墓は未だ見つかっていない。  景勝は天正八年(1580)七月、戦後処理で、本成寺に書状を送る。「代々与えられていた寺領をこれまで通り保証する」という内容だった。  本成寺には景勝だけでなく、謙信らの直筆の書状が数多く残り、文政六年(1823)「上杉家御判物」という巻物にまとめ、景勝の書状と共に、景虎が「御館の乱」以前に書いた年賀状の返事とみられる書状も収まっている。  本成寺黒門はいつの時代の物かは分らないが、三条城の移築城門と伝えられている。  三条左衛門定明は活躍した時代が平安期から戦国時代まで諸説あり、三条市東裏館の定明寺に正中二年(1325)に奉られているが、敗戦の将を表立って供養できず、別人の名前を借りた可能性もあるという。もしかしたら、神余親綱の墓でもあるのかもしれない。  いずれにせよ、三条左衛門は、三条名物「六角凧」にも描かれるように三条を代表する武将であり、これからも三条の英雄で有り続ける事と思う。
この記事は2009年度版元気MAP小冊子に掲載されました。


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